日本の歴史における戦国時代は、不安定な政治状況、地方大名の台頭、そして激動の社会変化の時代として知られています。
その幕開けは一般に「応仁の乱」とされてきましたが、最近の研究ではこの一般的な見解に再考が迫られています。
1467年に勃発した応仁の乱は、将軍家の家督を巡る争いに始まり、全国的な武力衝突へと発展しました。しかし、戦国時代への実際の移行は、それに先行する出来事、特に「明応の政変」に大きく影響されていた可能性が浮上しています。
さらに、関東地方では、より早い1454年の「享徳の乱」が、本当の戦国時代の始まりであったという見方が強まっています。
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]本記事では、これらの複雑な歴史的転換期における権力争い、家督争い、そして幕府の内外の政治的動乱に焦点を当て、戦国時代の実際の幕開けについて考察するよ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]先生、よろしくお願いします。[/voice]
応仁の乱から明応の政変へ:日本戦国時代の幕開け
戦国時代への道を切り開いた応仁の乱は、1467年に起こった日本の歴史上の大規模な内乱です。この乱は、足利将軍家の内紛と、それに付随する畠山・斯波両家の家督争いがきっかけでした。
幕府内の実力者、細川勝元と山名持豊(宗全)がこれに介入し、最終的には東軍と西軍に分かれて対立が激化しました。当時は、将軍家の家督争いが乱の主な原因であると見なされていましたが、近年の研究では、畠山氏の家督争いや将軍家以外の要因にも注目が集まっています。
一方、戦国時代の真の始まりを告げる出来事として、最近注目されているのは「明応の政変」です。これは1493年に発生したクーデターで、細川政元が10代将軍足利義材を廃して、足利義澄を11代将軍に擁立しました。
この政変は、応仁の乱後に弱体化した幕府権威の回復を試みる過程で起こり、将軍家内部の動向が幕府の命運を左右する事態を示しています。応仁の乱による西軍の劣勢と終結後、義視の子である義材が将軍となり、その地位を細川政元が脅かす形で発生しました。
政元は、将軍家の外縁から将軍を選出しようとしたが、最終的には日野富子の影響力が決定的で、義材が就任しました。しかし、この決定は政元にとって納得のいくものではなく、その不満が明応の政変へとつながったのです。
これらの出来事は、日本史において重要な節目であり、中世から近世への移行期とも言える時代の変化を示しています。
幕府と大名間の力の均衡が崩れ、その結果として地方の戦国大名が台頭してくる背景には、これらの政治的な動乱があったと言えるでしょう。
激動の幕末:将軍家の権力争いと政元の野望
日本の戦国時代の幕を開けた応仁の乱は、一般的には将軍家内の権力闘争が原因とされています。しかし、近年の研究ではこの乱の原因が将軍家の問題ではなく、畠山氏の家督争いにあることや、実際の戦国時代の始まりが明応の政変によるものだったという見解が出ています。
応仁の乱は、足利義政の弟である義視と、義政の子である義尚を推す義政の妻日野富子との間の家督争いが引き金になりました。
これに細川勝元と山名宗全が絡み、東軍と西軍が衝突し、大規模な戦乱へと発展しました。ただし、日野富子が義視の将軍就任を妨げた証拠はなく、これまでの解釈が見直されています。
その後の動向として、9代将軍足利義尚の死後、その後継者として、義尚の甥である足利義材と、義政の異母兄足利政知の息子である清晃(義澄)が候補に挙がりました。政元は清晃を支持していましたが、最終的には義材が将軍に選ばれます。
これは、義材が富子の支持を得ていたためです。しかし、義視が小川御所を破壊した事件をきっかけに、義材と日野富子の関係は悪化し、義材は孤立を深めていきます。
この孤立から脱するため、義材は六角行高の討伐を行いますが、これには政元が反対しました。にもかかわらず、義材は討伐を強行し、成功を収めます。
その後、義材は政元ではなく畠山政長との関係を強化し、政元との間に緊張が高まります。これが後の「明応の政変」へとつながるわけですが、この政変によって細川政元が実権を握り、足利義澄を擁立することに成功します。
関東享徳の乱から始まる戦国時代の序章:鎌倉公方の動乱と勢力争い
関東地方における戦国時代の始まりは、しばしば「応仁の乱」以降とされがちですが、実際にはそれよりも前、1454年の「享徳の乱」がきっかけでした。
この乱は、鎌倉府が京都の室町幕府と対立するなか、鎌倉公方であった持氏が、関東管領であった上杉憲実に反旗を翻した事件から始まります。憲実は持氏に反抗的な姿勢を取りましたが、逆に持氏に攻められてしまい、結果として室町幕府が介入して持氏は自害に追い込まれます。
その後、憲実に代わり関東管領となった清方が関東の安定に努めますが、早逝してしまいます。若き憲忠が後を継ぎますが、幕府は持氏の子である成氏を鎌倉公方に復活させることで関東の安定を図ります。
しかし、これがさらなる紛争を招き、関東は混乱に陥ります。享徳の乱の最中、成氏は憲忠を謀殺し、これが公方と管領方の全面対立へと発展します。
この結果、関東では、上杉氏の内紛や古河公方・成氏と堀越公方・政知との対立、さらには扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立など、多くの武士団が権力を争い、約30年続いた享徳の乱を通じて、早くも戦国時代の様相を呈していきます。
そして、この混沌とした関東に北条早雲が現れ、新たな勢力として台頭していきます。このように、関東地方では、西国に先駆けて戦国時代が始まっていたのです。
総括
戦国時代の幕開けは、応仁の乱だけではなく、その後の政治的動乱、特に明応の政変によってもたらされた影響が大きいということが明らかになっています。
この時代の変遷は、将軍家内部の権力闘争、畠山氏をはじめとする家督争い、そして地方大名の自立と力の拡大によって特徴づけられます。
細川政元の野望と策略は、幕府内の力学を大きく変え、結果として日本全土に波及する政治的混乱を引き起こしました。また、関東地方においては、享徳の乱が戦国時代への先駆けとなり、地域によって異なる時期に戦国時代が始まったことが示されています。
これらの出来事を通じて、日本は中世から近世への転換期を迎え、戦国大名による地方支配という新たな時代の序章が開かれたのです。
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