真田幸村(真田信繁)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で大名です。彼は左衛門佐という官位を持ち、源二郎または源次郎とも呼ばれていました。
彼の名声は特に大坂夏の陣において徳川家康を追い詰めたことに起因しています。この戦いで、真田信繁は徳川の本陣まで攻め込むという顕著な活躍を見せ、「日本一の兵」と称されるほどの国民的英雄となりました。この評価は江戸幕府や多くの大名家の史料にも記録されています。
後世、彼の人物像は多くの軍記物、講談、草双紙(絵本)で描かれ、特に猿飛佐助をはじめとする真田十勇士とともに徳川家康に立ち向かう英雄的な姿が庶民に親しまれるようになりました。このイメージは、明治から大正時代にかけて流行した立川文庫の講談文庫本によってさらに広がりました。
また、真田信繁(幸村)の人気は現代においても高く、2016年には彼を主人公とする大河ドラマ「真田丸」が放送されました。このドラマは三谷幸喜が脚本を担当し、堺雅人が主演を務め、彼の生涯と活躍を描いています。真田信繁(幸村)はその軍略と勇敢さで多くの人々に敬愛され続けている歴史上の人物です。
真田幸村(真田信繁)の歴史や生涯をクイズ問題を通じて理解しましょう。
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【真田幸村(真田信繁)クイズ問題①】信濃の影から歴史の表舞台へ
真田幸村(真田信繁)は、信濃(現在の長野県)の豪族、真田家の出身で、父は真田昌幸です。彼の生まれた年は明確ではありませんが、( ① )年説と( ② )年説があります。また、真田家は、祖父真田幸隆の時代に武田家に仕え始めましたが、その背景には( ③ )という過程があります。
( )のことばを答えてみよう!
①と②は、幸村が亡くなったときの年齢から推測される生まれ年です。
③については、武田家に仕える前の真田家の動向に関連する事柄です。
解説
①1567年と②1570年 真田幸村の生年については、彼が亡くなった時の年齢から、1567年か1570年のいずれかとされています。ただし、これは完全には確定していないため、謎に包まれています。
③領地奪回の動機 真田家は、真田幸隆の時代に突如歴史に登場します。一説には、真田家は元々海野氏や実田氏という姓を持つ一族で、武田氏によって一度追放された後、領地を取り戻すために武田氏に仕えたとされています。このような背景が、真田家が武田氏に仕えるきっかけとなった可能性が高いです。
【真田幸村(真田信繁)クイズ問題②】真田幸村の名の謎
( )のことばを答えてみよう!
①は真田幸村の没後に書かれたもの、②は真田幸村に関連する人物や物から由来している、③は真田幸村の代表的な武器です。
解説
①死後に書かれた軍記物 真田幸村という名前は、彼の死後に書かれた軍記物に初めて登場します。生前に「幸村」と名乗っていた確かな記録はなく、この名前の起源は明確ではありません。
②姉の「村松殿」説、妖刀「村正」説 「幸村」という名前の「村」に関しては、姉の「村松殿」にちなむという説や、徳川家に仇なすと恐れられた妖刀「村正」が由来とする説があります。これらの説は伝説的な要素を含み、真実かどうかは定かではありません。
③十文字槍 真田幸村の武器に関しては、十文字槍が定説とされています。村正に関する話は後世の創作や俗説とされ、彼の実際の戦闘での使用武器としては、十文字槍の方がより信憑性があります。
【真田幸村(真田信繁)クイズ問題③】戦国時代の波乱に翻弄された一族
真田幸村(真田信繁)が生まれたのは戦国時代中期で、この時代、武田信玄は諸大名との勢力争いに明け暮れていました。その中で、尾張を治めていた( ① )が台頭し、( ② )の形成を促しました。真田家は、武田信玄の下で重臣として領地を取り戻しましたが、( ③ )年には武田信玄が病死し、武田家の運命は大きく変わります。真田幸村が生まれてから6年後、父真田昌幸は( ④ )の家督を継ぎましたが、やがて武田家は滅亡し、真田家は( ⑤ )のもとへ人質として送られます。
( )のことばを答えてみよう!
①尾張を治めていた大名の名前
②武田信玄が関与した政治的な動き
③武田信玄の死亡した年
④昌幸が継いだ家
⑤真田幸村が人質として送られた大名家
解説
①織田信長 戦国時代中期、尾張の織田信長は力を付け、全国統一を目指して諸大名との勢力争いを展開していました。
②織田信長包囲網 武田信玄をはじめとする諸大名は、織田信長の勢力拡大を食い止めるために、織田信長包囲網を形成しました。
③1573年 1573年、武田信玄は病死し、武田家の運命は大きく変わります。これにより、織田信長包囲網も解かれ、武田家の勢力は弱まり始めました。
④真田家 1575年、真田昌幸は真田家の家督を継ぎました。昌幸は沼田城攻略などで奮闘しましたが、最終的に武田家は滅亡し、真田家の運命も不透明になりました。
⑤上杉氏 真田家はその後、上杉氏に従属し、真田幸村は19歳で越後に人質として送られました。これにより、真田家は周囲の強国に囲まれながらも生き残る道を探ることになりました。
【真田幸村(真田信繁)クイズ問題④】若年期と真田家の政治戦略
1583年(天正11年)、上杉氏に対する前線として、( ① )が築城され、後に真田家の居城となります。真田昌幸は、徳川家康が提案した沼田領の( ② )を拒否し、徳川氏との関係は悪化。このため、( ③ )年に、真田幸村は上杉氏へ人質として送られ、( ④ )から特別な待遇を受けます。同年、( ⑤ )が勃発し、真田家は勝利を収めます。その後、真田幸村は豊臣秀吉に( ⑥ )し、( ⑦ )にて仕えることになります。
( )のことばを答えてみよう!
①築城された城
②真田昌幸が拒否した提案の内容
③真田幸村が人質として送られた年
④上杉氏の当主
⑤真田家と徳川家康との間で起きた合戦
⑥豊臣秀吉に近づいた際の動き
⑦豊臣秀吉の拠点。
解説
①上田城 1583年、徳川家康の命令により上田城が築城され、後に真田家の居城となりました。
②北条氏への領地引き渡し 真田昌幸は、徳川家康が提案した沼田領を北条氏に引き渡す提案を拒否し、徳川氏との関係は悪化しました。
③1585年 1585年、真田幸村は上杉氏へ人質として送られました。この時、彼は上杉景勝から家臣と同じような待遇を受けています。
④上杉景勝 上杉景勝は真田幸村を人質として迎え、彼に土地を与えるなど特別な待遇を提供しました。
⑤第1次上田合戦 1585年に第1次上田合戦が勃発し、真田家は徳川家康の軍に対して圧倒的な不利な状況ながらも勝利を収めました。
⑥仕えることを決める 真田幸村はその後、台頭していた豊臣秀吉に接近し、彼に仕えることを決めました。
⑦大坂 豊臣秀吉の拠点である大坂で、真田幸村は仕えることになりました。この頃に元服し、名を「信繋」としています。
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