古代日本の歴史を紐解くと、人々の日常や政治的な出来事だけでなく、霊や怨霊といった超自然的な存在との関わりが深く見られます。
特に平安京の成立は、このような霊的要因との結びつきが強く、多くの歴史的なエピソードが伝わっています。
今回の記事では、平安京の移都がなぜ怨霊と関わりを持つのか、どのような政治的背景や信仰が影響していたのかを詳しく探っていきます。
また、怨霊と都の運命というテーマを中心に、古代日本の都市計画や信仰の形成、そしてその変遷についても触れていきます。
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]古代の信仰や文化を理解する上で、怨霊の存在は欠かせない要素であり、その影響と意義を深く掘り下げていくよ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]先生、よろしくお願いします![/voice]
平安京移都の背景とは?怨霊、鎮護国家、そして道鏡の影
平安京の移都の背景には、怨霊や鎮護国家、そして僧侶道鏡の存在という三つの要素が深く関与しています。
まず、古代の日本においては怨霊や祟りの存在は実際の社会でも常に認識されていました。
現代では「怨霊」や「祟り」という単語が比喩として使われることもあるが、当時はこれらの存在を真剣に捉え、実際の社会にも霊が跋扈していると信じられていました。
このような背景のもとで、平安京への遷都が議論された際、先代の都、平城京(奈良)に関して様々な怨霊や祟りが取り沙汰され、そのため新しい都への移動が必要とされました。
次に、鎮護国家の考え方です。奈良時代の途中、聖武天皇は仏教の力を利用して国の安定を図る「鎮護国家」を目指しました。
鎮護国家とは、国家の運営と仏教が密接に結びついた形態を指すもので、これにより仏教の力が国家統治に大きな影響を持つようになりました。この結果として、寺院や僧侶が政治に大きく介入するようになったのです。
そして、その中で最も影響力を持ったのが僧侶の道鏡でした。道鏡は、孝謙上皇(称徳天皇)の寵愛を受け、法王という高位にまで昇進しました。
彼の影響力は非常に強く、一時は天皇の位にも迫るほどでした。特に「宇佐八幡宮神託事件」を通じて、道鏡が天皇即位を目指したことは朝廷内で大きな騒動となりました。
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]結果として、道鏡の即位は阻止されたものの、この事件は平安京への遷都の一因ともなったんだよ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]このように、平安京への移都の背景には怨霊、鎮護国家、そして道鏡という三つの要素が複雑に絡み合いながら影響を与えていたんですね。[/voice]
怨霊と政治!平安京遷都の背景と桓武天皇の試練とは?
桓武天皇の治世は、政治の中心が奈良から平安に移る過渡期でした。仏教が力を持っていた奈良時代の後、桓武天皇は仏教の影響を政治から取り除こうとしました。
そのため、首都を平城京から、大きな川のそばに位置する長岡京へと移すことを決意。しかし、この都の造営中に、その責任者である藤原種継が暗殺される事件が発生します。
この暗殺事件の背後には、桓武天皇の実の弟である早良親王の影がちらついていました。早良親王は、桓武天皇による都の移転や政策の変更に反対する勢力と繋がりを持っていたとされ、その結果、桓武天皇によって幽閉され、のちに流罪とされました。
しかし、早良親王は自らの無実を訴えるハンガーストライキを開始し、その途中で命を落とします。
早良親王の死後、桓武天皇の周りでは不幸な出来事が次々と起こります。親しい人々の死、天然痘の大流行、そして大洪水や霧島山の噴火など、多くの自然災害が続発。
これらの災厄の原因として、桓武天皇は占いを行い、早良親王の怨霊のせいだと結論付けます。桓武天皇は早良親王の霊を鎮めようと試みましたが、それでも災害は収まらず、とうとう長岡京を放棄し、新しい都・平安京への遷都を決定します。
こうした歴史的な出来事は、今の私たちの価値観や視点から見ると、なかなか理解しづらいものも多いです。
※参考:平安時代「長岡京への遷都」
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]しかし、桓武天皇時代の人々にとって、政治や自然との関係、そして霊的な存在への恐れや信仰は、日常の中で非常に大きな役割を果たしていたんだよ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]平安京が「未完の都」と言われる背景にも、このような桓武天皇の試練や取り組みが影響していると言われているんですよね。[/voice]
怨霊の影響!古代日本の政治と信仰の交錯とは?
怨霊の存在とその影響は、古代日本の歴史や政治に深く根ざしています。教科書の内容の変遷を通じて、その事実が明らかとなります。
たとえば、かつての教科書では、平安京遷都の理由として「長岡京の建設長官・藤原種継の暗殺」だけが挙げられていましたが、真の理由はそれだけではありませんでした。
近年の教科書では詳しく語られており、皇太弟の早良親王が藤原種継の暗殺事件に関与していたとして捕らえられ、その後死亡。
この事件により、桓武天皇は早良親王の怨霊に悩まされ、平安京への遷都を決意したと記されています。この記述から、政治的な背景だけでなく、怨霊や超自然的な要因が歴史の流れに影響を与えていたことがうかがえます。
特に菅原道真の例は、怨霊の影響を端的に示すものです。彼は才能ある政治家でしたが、ライバルである藤原時平の讒言により大宰府へと左遷されます。
道真の死後、彼に敵対した多くの人々や皇室の一員が次々と不幸な死を遂げ、これが「道真の怨霊の仕業」と噂されるようになりました。結果、朝廷は道真を神として北野天満宮に祀ることを決め、彼は学問の神として広く信仰されるようになりました。
このように、古代日本では怨霊や超自然的な要因が政治や歴史の動向に大きな影響を与えていたと言えます。
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]さらに、『日本後紀』に「怨霊」という言葉が初めて登場したのも、桓武天皇の時代であり、仏教の影響も関連していると考えられているんだ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]仏教は、怨霊がもたらす災厄を供養や調伏といった方法で鎮める教えを持っており、これが古代日本の怨霊信仰と結びつき、歴史の流れを形成していったのですよ。[/voice]
怨霊と都の運命とは?平安京の背後に潜む古代信仰の影
平安時代初期、死後の世界において恨みを持って死んだ人々が、復讐の目的で個人や社会に害をもたらすという信念が広まりました。
これらの霊を「怨霊」と呼び、一方でこれらの霊を神として敬い、鎮めるための儀式を「御霊会」と称しました。
御霊会の起源は、863年に藤原基経が中心となり、早良親王や伊予親王など、怨霊とされる者たちを祀ったとされる神泉苑での儀式に遡ります。
この儀式はその後、日本全国で行われるようになりました。祇園祭は、京都の代表的な祭りで、八坂神社の祭りとして知られていますが、その正式名は祇園御霊会で、これも御霊を鎮めることを目的としたものでした。
話は平安京の未完の都としての側面に移ります。桓武天皇は、平安京の建設と東北の蝦夷征討という大きな二つの事業を進めていましたが、これらの事業は国と民を疲弊させ、国の財政に大きな問題をもたらしました。
このような背景の中、桓武天皇は二大事業の継続を巡る議論、いわゆる徳政相論を行いました。この議論の中で、藤原緒嗣は事業の中止を強く主張し、その意見が採用され、平安京の建設と蝦夷征討は中止されることとなりました。そのため、平安京は完全には完成しない、未完の都としての側面を持つこととなりました。
桓武天皇の死は、この決定の後に迫っていました。彼の体調が急激に悪化し、805年3月17日に亡くなりました。
彼の死に際して、種継事件に関与したとされる人々の罪を全て赦すという宣言を残しています。
この中には、早良親王も含まれており、彼は実際には無実であった可能性が指摘されています。
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.40.57.png” name=”メガネ先生” type=”r big fuku”]桓武天皇が彼らを許すことで、死後の世界での罪を免れようとした可能性も考えられているんだよ。[/voice]
[voice icon=”https://otokai.net/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-13-17.41.03.png” name=”生徒:よし子ちゃん” type=”l big kufu”]これは、古代日本の信仰と政治の織りなす複雑な関係性を浮かび上がらせるものであり、平安京の背後に潜む深い歴史と文化を感じ取ることができますね。[/voice]
総括
平安京の移都とその後の都市発展は、単に政治や経済の要因だけでなく、怨霊や信仰といった霊的背景とも深く結びついていました。
この関連性を通じて、古代日本の人々が超自然的な存在をどのように捉え、それにどのように対応してきたのかの一端を垣間見ることができます。
怨霊というテーマは、平安文化の中でも特に重要な位置を占めており、都市計画や信仰の形成にも大きな影響を及ぼしていました。
今回の探討を通じて、私たち現代人も古代の信仰や文化に対する理解を深めることができたと考えます。
そして、古代と現代を繋ぐ価値観や考え方の継承について、改めて考える機会となりました。
※今回のクイズの理解度を深めるために、【平安京クイズ】にチャレンジしてみよう♪
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